こんにちは、つじんぬです。
年も明けましたし、心機一転、今年も良い年にしたいと皆さん思っていますよね。
当然私も同じです。そこで前回に引き続き、運勢の話題をしたいと思います。
新年最初に行くのは初詣。
お賽銭を入れて神様に願い事をする、というのが日本の風習になっています。
この「神様にお願いする」という行為について今回は自分の考えを語りたいと思います。
あくまでもつじんぬ個人の考えであり、神様がいる・いないはそれぞれの考えがあると思います。
それを否定するものではないことをご承知おきください。
そもそも、神様はいるか
正直私はあまり信心深い方ではないので、「神様へのお願い」や「おみくじの結果」も大して気にしていません。
しかしそんな考えなのに神社にも初詣にも行きます。
こんなことを言うと信仰心のある人からは批判されるかもしれません。
正確には神様はいないと思っているのではなく、「当てにしていない」のです。
ただ、もしいたとしたら願いを聞いてあげたいと思われるような態度と行動をしていきたいと思っています。
そうは思っていてもついついだらけたり楽な方に流されたり、自分に都合のいい思い込みをしたりしてしまいますが・・・
少なくともそう思っています。
誰にお願いしているのか
では「願いを聞いてあげたいと思われるような態度と行動」とは何か。
それは上記の財布の時も書いたのですが、「礼儀」や「リスペクト」が必要だと思います。
例えば、神社に行った時にそこに祀られている神の名前も知らずに願い事をするのは失礼な話ですよね。
あなたが誰か知らないけどとりあえず願い叶えて!と言われてもいきなり来て何だかねぇ…て感じしませんか?
仕事でもそうです。
あなたの実力を見込んでお願いしたいと言われたいですよね。
誰でもいいから金払うし仕事やってよとか言われたら(プロなら気分に関係なく全力を尽くせと言うのは一旦置いておきましょう)、気持ちよくはないしやる気もあまり湧きませんよね。
神を当てにしないとは
願いを叶えるのは自分自身
例えば自分が神様だったとして、自分では何もせずに願いを叶えてくださいと言われても聞く気にならないと思いませんか?
自分は努力せずに誰かの力を借りようなんて虫が良すぎるでしょう!
願いを叶えるのは神様ではなくて自分自身なのですから。
ただ、いろんな方法で努力して、練習して、もうやれることはない、あとは運次第、ぐらいまでやってきた人の願いなら叶えてあげたいと思います。
こういう時、神様は見ているよ、と言われたことがあったと思います。
まずは大前提として神がいるかいないかは人それぞれの考えとは思いますが、いないと思うのならそもそも初詣に行く意味もないはず。
何か願掛けをするにも最初から人(神)頼みでなく、自分自身を見つめ直してから臨みたいものです。
お願いではなく「私はこうしたい、こうなりたい」と目標を宣言してみるのはどうでしょうかね。
神を当てにしないの意味
自分の力で結果を掴むべき。
最初から助けてもらおうとは思っていない。
ラッキーには期待しない。
私が宝くじを買わないのはこういう考えからです。
願いを叶えるためにはもちろん「運」の要素も大きいです。
私は音楽好きですが、実力があるのに世間からは注目されてこなかった歌手が、大ヒットドラマやアニメの主題歌に抜擢されたことで急に大注目されるようになったり、漫才の大会で一番おもしろいと思った芸人ではない方のコンビが優勝してスターになる。
そこには
・たまたまプロデューサーの目に止まった
・審査の順番や審査員の心理状態
などの本人の実力以外の要素が絡んでいることは間違いなくあると思います。
しかし運の要素があったとしても
仮に神頼みをした人が合格して、しなかった人が落ちたとしても、その行為自体が結果を変えたとは全く思いません。
結果を掴み取った人は間違いなく努力を重ねていたはずなのですから。
私が神様を当てにしていないというのはそういう意味です。